Yuichi Murata's Engineering Blog

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こうして「非常事態」という言葉は死んだ

「まさにギリギリ持ちこたえている状態だ。」 最近メディアで良く目にするフレーズといえばこれである。

非常事態宣言をするか否かを問われて首相が繰り返し発言しているフレーズである。 このフレーズを聞いてはや一週間以上経つ。その間にも感染拡大は止まらない。悲観的なニュースが連日放映される。もし仮に今日明日に「非常事態宣言をします」と言われても「何を今更…」としか思えないのは自分だけだろうか。日本は主権を制限する仕組みが相当限らられているし、いまさら非常事態宣言をしたところで、何かが劇的に変わるとも思えない。

こうして考えてみると「非常事態」って何なんだろうかと思う。もはや「非常事態」という言葉は何も意味をなさない。言葉として死んでまったのではないかと思う。

言葉は適切な時に使わないと死ぬ

こんなことを考えていて、強烈なデジャビュを感じた。

パンデミックと呼べる状態だ。」

世界的に新型コロナウイルスの流行が加速するなか、いつパンデミック宣言がなされるのかと世界が注視した。連日に渡って、今の状況がパンデミックと呼べるか、呼べないかという専門用語の使い所の議論に終始し、我々庶民はそんな「専門家」たちの議論を白い目で見守った。結局の所、もはや手に負えない状況にまで感染が広がってから WHO の事務局長はこの言葉を発した。いまさら言われても何の意味もない。

いまの日本政府の状況を重ねてみると気持ち悪いぐらいに同じ轍をふんでいるように見える。我々日本国民が求めているのは今が「非常事態」と言えるかそうでないか、どこからが「非常事態」なのかという議論ではないはずである。どうやってこれ以上の損失を防ぐか。そのための強烈なリーダーシップである。もっと早い段階で中央政府、地方政府が「非常事態」を宣言していたら、それも手段の一つとして機能したかもしれない。若い世代も含めてもっと気が引き締まったのではないかと思う。なまじ緊急事態を法律として整備してしまった結果、主権を制限する必要性が発生しない限り日本政府として「緊急事態が起きました」と言えなくなってしまったのは、まったくの皮肉である。

北海道知事は、北海道で感染拡大の兆候が見えた瞬間に即座に「緊急事態宣言」を出した。法的な根拠はなかった。宣言に伴って日用品を買いに道民が走るという混乱もあった。今でも、あの宣言は適切だったのかという批判もある。だがおかげで、北海道での日毎の感染数は減らないまでも横ばいに推移するようになった。「自粛疲れ」といった言葉とともに日毎の陽性件数を伸ばしている東京都は対象的である。

まさしく、言葉というのはタイムリーに使ってこそ活きる物で、適切な時に使わないと死ぬということではないだろうか。

リーダーの躊躇いが言葉を殺す

北海道知事の例を見ると分かるように言葉を活かすか殺すかはリーダーの決断如何にかかっている。

ワシントン・ポストはなぜ今回これほどにパンデミック宣言が遅れたのかという記事を書いている。2009 年の新型インフルエンザが発生した際に早い段階で「パンデミック宣言」を出した。各国政府はパンデミック宣言に伴いワクチンを買い漁った。しかし実際にこのウイルスの致死性がそれほどでもないことが分かると、パンデミック宣言を出した WHO は各国政府から批判に晒された。それ以後 WHO はパンデミック宣言に慎重になったというのである。

https://www.washingtonpost.com/health/2020/03/11/who-declares-pandemic-coronavirus-disease-covid-19

不用意な誤報を防ぐ必要は理解する。だが、誤報を恐れるあまり手遅れになってから宣言を出したのでは、宣言自体に意味がなくなる。

こうして自分が批判しているのも結果論に過ぎないという見方もあるだろう。仮に早い段階で非常事態宣言を出していたとして、無用な混乱を引き起こしただけで、大した可能性がなかった可能性だって否定できない。

だが、リーダーシップとはそもそもそういうものである。白黒はっきりつかないことを白だ、黒だということがリーダーシップの本質である。こうした意思決定に 100% はない。間違えるときは間違える。

情報の判断には、百パーセントのデーターが集まることは不可能です。三十パーセントでも、四十パーセントでも白紙の部分は常にあります。この空白の霧の部分を、 専門的な勘と、 責任の感とで乗り切る以外にありません。

情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記 (文春文庫) 堀 栄三

我々が学ぶべきこと

散々書いてしまったが、政府や省庁の批判をするのが主旨ではない。一方で、こうした混乱の状況下でこそ得られるリーダーシップの学びを我々は忘れてはならないと思う。

特に現在のような不透明な状況において、意思決定はかなりの確率において間違うだろう。そのような状況にあっても、リーダーは決めなければならない。すべてが明らかになって、手遅れになってからクロでしたというのは最悪である。 例え間違えて、後に責任を追求されたとしても決める。その覚悟こそが非常時に求められるリーダーシップなのだろうと思う。 そうしたリーダーの「覚悟」があって初めて「言葉」は活きるということなのだろう。

  • 本記事は個人の意見であり、所属する組織・団体とは関係ありません