Yuichi Murata's Engineering Blog

グローバル・エンジニアリング・チームをつくる

エンジニアが学ぶ弁証法

「哲学」というのはエンジニアリングの世界では多少皮肉的なニュアンスを含めて語られることが多いように思う。論理的に白黒つけることができないんだけど、「なんかこれが良いよね」という、曖昧な主張というラベル的な使われ方をしがちなのではないかと思う。

最近になって、色々と読書をするようになって古典哲学を勉強する機会が増えた。 この歳になってようやく古典哲学が様々な理論の礎となり、思考の型となっていることを実感するようになったので、ここに書いておきたい。

f:id:yuichi1004:20201004224204j:plain

Photo by LinkedIn Sales Navigator on Unsplash

弁証法 = 対話による本質の追求

古典哲学の中でも最も基本的なものは「弁証法」である。聞き慣れなくてなんだか良くわからんという感じがするが、ざっくりいえば「ふたつの異なる視点をもった人が対話によって物事の本質を見つける方法」ということである。

ソクラテス弁証法

弁証法の起源はかの有名なソクラテスである。ソクラテスの方法は日本語では「弁証法」というより「問答法」などと訳されることが多いが、どちらもギリシャ語では διαλεκτική と表記されるらしい。

ソクラテスは、ありとあらゆる人に質問をふっかけていた。自分の意見を主張するでもなく、相手の意見を否定するでもない。ただただ、相手の主張や「知っていると思っていること」に対してひたすら質問を投げかける。質問をされた相手は次第に説明に窮するようになって、自分は実はあまり知らないことを知っていく。こうした中で、人に無知を自覚させることで、本質を掘り下げていく。これが「無知の知」とか「不知の自覚」とか言われるのだけど、これがソクラテスの対話、つまり弁証法だったということである。

現代的な言い方をするとソクラテスコーチングによって他人をより賢くしようとしていたということである。紀元前 400 年ごろからコーチング的思考のルーツがあったというのは興味深い。人間は人から頭ごなしにあーだーこーだ言われるよりも、他人との対話の中で自ら気づいたことのほうが素直に腹落ちして、より良く成長する。こうした人間の本質はこのころから変わっていないようである。

ヘーゲル弁証法

もう一つ有名なのがヘーゲル弁証法である。「テーゼ」「アンチテーゼ」などという言葉ぐらいは良く聞いたことがあるんじゃないだろうか。自分は恥ずかしながらこの歳になるまでこの言葉の意味がわかっていなかった。つまりある事柄に対して肯定する意見 (テーゼ) と否定する意見 (アンチテーゼ) をぶつけてみる。一見矛盾するようにしか見えないのだけれど、対話を重ねていくうちに新しい側面が見えてきて、両者を内包する別のアイディア (ジンテーゼ) を発見する。

このヘーゲル弁証法的アプローチは他のいろんな理論に使われているので、これを知っておくと勉強が捗る。例えば、戦略論を勉強するにあたって抑えるべき古典として、東洋の兵法といえば孫氏、西洋ならクラウゼビッツの戦争論である。この戦争論は、「理論上気に入らない相手はとことん殲滅するはず」なのに「現実には殲滅に至る前に和平を結んで戦争を辞める」のはなぜだろうというテーゼとアンチテーゼをぶつけることで、戦争ってそもそも何なの?という本質を追求している。 ヘーゲル弁証法を知らないと、なんでこの理論はこんなまどろっこしいことをするのだと思うだろう。

弁証法ソフトウェア産業のお仕事

これらの弁証法を「よくわからん哲学」と片付けずに触りぐらいを勉強しておくと、テクノロジーのお仕事をしていても意外に役に立つというのが最近実感するようになってきた。

まずソクラテスの対話の仕方は、最近のテック企業ではおなじみの 1-on-1 におけるコーチングにおいて間違いなく役に立つ。また次から次へと新しいことを学ばないと生きていけないこの業界において「何を知らないか知ること」は新たな学びを得る上でとても大事である。最近では「知的謙遜」といった新しいキーワードも出てきている。その中でソクラテスの「不知の自覚」を促す問答法は、他人との対話にも自分との対話においても間違いなく重要な役割を果たすと思う。

また、変化の激しいこの業界で仕事をしているとどうしても「矛盾」と戦わないといけない局面が発生することが多い。こういう矛盾と向き合わなければならないときに、ヘーゲル弁証法を知っていると物事の本質を掴んで矛盾を解決する手助けになる。

ちょっと前に t-wada さんの「質とスピード」という発表を見た。昔からソフトウェアの品質とスピードはトレードオフの関係にあると考えられがちだったけど、実は違うんじゃないかと言う話である。「スピードを優先した結果、品質が落ちる」のではなくて「品質が高いからスピーディーにリリースができて、スピーディーにリリースを繰り返すからこそ品質があがる」すなわちトレードオフではなくてエスカレーションの関係なんじゃないのかという話である。「品質を犠牲にしてスピードを優先する」テーゼに、「品質に拘った結果スピードが遅れる」アンチテーゼをぶつけた結果、じつはそこに両者を満たす本質的な解、ジンテーゼがあるじゃないかという典型的な弁証法的ロジックなのである。

speakerdeck.com

趣味程度に哲学を学んでみると良いと思う

みなさんはどうかわかりませんが、自分はエンジニアリングの勉強に集中するあまり、こうした哲学的な素養を学ばずにここまできてしまいました。ですが、あらためてそれを勉強してみると、より幅広い理論や思考を理解することができ、自分の思考を整理するのが以前よりやりやすくなったように感じています。